2011.03.11 -> 2021.03.11

あの日からちょうど10年が過ぎました。

いろいろな意味で、良いことがあった毎日でした。

あの時のこと、今はまだ覚えているけれど、いつか忘れてしまうかもしれないので、書き残しておこうと思います。

とつぜんの緊急地震速報。
テレビから流れているほどではないけど、それなりに強い、そして長い揺れ。

揺れの中、パニックになったり焦ったりすることもなく「ああ、これは液晶とか本棚とかヤバいな」と感じ、液晶をゆっくり倒したり、本棚の中身を取り出して平積みにする。

その途中、窓から外を見るとビュンビュン揺れている電線。

これ、もしかして沿岸部にはかなり大きな津波がくるんじゃないか?

緊急地震速報でたまたまつけたテレビを見ると、現在進行形の東京での揺れの話し。

ちがう。そうじゃない。
震源地に近いところ、免震構造のない建物では、もっと揺れてるんだ。

幸い、自分が住んでいるのは地下深くでマグマが固まってできた、花崗岩でできた阿武隈山地。
しかも、かつては三春藩があった場所。土地の利点があります。
言うほどの揺れではなかったし、ガスも、水道も、電気も止まらなかった。

でも、その数十分後、テレビで強烈な光景を目の当たりにする。

流される家屋、倒壊する建物、高台に避難された方の悲惨な叫び声。
平野を押し流す海水。
そして、陸橋の上に逃げていく車。
絶叫するアナウンサー。

この世の終わりかと思うほどの衝撃でした。

でも、自分にとって、あるいはふくしま、東日本にとっての恐怖はまだはじまりに過ぎませんでした。

続いている余震の中、気になっていたのは原発。
原発が海水に飲まれた話し、電源を喪失している話しは、報道から明らかでした。

学部のころとはいえ、量子力学と熱力学の課程で少しだけ原子力発電の仕組について学んでいました。

でも、大丈夫であろう…いや、大丈夫であって欲しいと思ってました。

しかし翌日から始まる信じられない報道。

被災3日目には、かつて住んでいた北海道への航空券を買うために、ときどき不安定になるインターネットとにらめっこすることに。

ようやくチケットを買うことができ、残り少ないガソリンに不安を覚えながら新潟空港へ向かい、北海道へ飛びます。

その道中も、不安の中、いろんな人の温かい気持ちに支えられながらの移動でした。

それから1ヶ月ほど北海道で過ごして、復興のためになにかできるだろうという思いと、線量を見て、持ち家のある三春に戻りました。

10年経って感じるのは、あの時の温かい気持ちやお互いを思いやる優しさというのは、その人個人の奥底から湧き上がるものだったのだな、と痛感します。

一方で、今はそういった方々の顔や声が、少しずつ見えなくなってきてしまった。

自分のために、他人のことをどうとも思わない人が目立ってしまっている。

あの時、わたしたちと社会は大きく変わることを強いられました。

強いられなくてもできることくらい、みんな分かっているはずです。

どのみち、自然はまたあのようなことのきっかけになるし、それに逆らうことはできません。
いつもどこかで地震は起きてるし、大きく揺れれば山は崩れるし、それが海なら、津波となって押し寄せるかもしれません。
噴火だってそうです。ひとたび吹き出せば、山が崩れたり隆起したりしますし、太陽の光を何日も遮ったりもします。

それは、変えることができなくて、受け入れるしかない。
変わることができるのは、自分たちだけなのですよね。

足の引っ張り合いや、陰口ではない、だれかれだけの損得ではない、もっと大きな視点から新しい社会をつくっていかなくてはならない、そう思います。